荒川央氏:【前編】次世代LNP/mRNA製剤と癌: 癌の生物学
ファイザーやモデルナのコロナワクチンはLNP/mRNA製剤ですが、今後LNP/mRNA製剤は、ワクチンはもとより癌治療など多方面に応用されようとしています。今回はそのLNP/mRNA製剤全般についてお話ししていこうと思います。長い内容のため、前後編に分けさせていただきました。
LNP/mRNA製剤による癌の予防や治療を理解するためには、どうしても癌の生物学の基礎知識が必要となります。癌細胞発生の機序や現状の癌治療法とその限界についてを前編に記しました。癌に対する次世代LNP/mRNA製剤そのものが興味の方は先に後編の「LNP/mRNA製剤による癌の予防や治療は可能か?」から読み始め、後編を読んでから参考となる前編の項目を拾って読まれても良いかと思います。
また、読者の方からの提案を参考にさせていただき、興味のある項目から読む事ができるように、今回の記事からnoteの目次機能を使って見出しと目次をつける事にしました。
癌遺伝子と癌原遺伝子
基本的に人間の癌は感染症ではありませんが、実はニワトリやネコやマウスなどの多くの動物では癌はウイルスによる感染症なのです。では、どうして癌が感染するのでしょうか?最初の癌ウイルスは1911年にペイトン・ラウスによってニワトリから発見されました。このラウス肉腫ウイルスはニワトリに癌 (肉腫) を発生させるウイルスですが、その後の研究でこのウイルスは細胞を癌化させる遺伝子を持っている事が分かりました。この遺伝子が世界で初めて発見された癌遺伝子のsrcです。
そしてその後、動物もヒトも共通して癌遺伝子と非常に相同性の高い遺伝子を持っている事が分かってきました。癌遺伝子は英語ではoncogeneですが、動物やヒトが持っている癌遺伝子に似た遺伝子は癌原遺伝子 (proto-oncogene) と呼ばれます。では、なぜ癌でもない正常細胞が「癌遺伝子のような遺伝子」を持っているのでしょうか?実は、癌原遺伝子は正常な細胞の増殖に必要なのです。こうした癌原遺伝子にはたくさんの種類があります。細胞増殖因子やその受容体チロシンキナーゼ、srcのような非受容体型チロシンキナーゼ、rasのような低分子量Gタンパク質、その下流にあるセリン・スレオニンキナーゼといったシグナル伝達因子の他、さらに下流で機能するmycやetsなどの転写因子などです。
癌遺伝子と癌抑制遺伝子
正常な細胞は増殖が精密に制御されています。癌の引き金は細胞の増殖制御機構の破綻であり、その原因は癌原遺伝子や癌抑制遺伝子の変異です。癌原遺伝子は本来、細胞の増殖や分裂を制御する遺伝子群です。それに対し癌抑制遺伝子の多くは、DNA修復、細胞周期、アポトーシスなどに関わっています。アポトーシスとは自爆プログラムによる「細胞の自殺」です。癌原遺伝子と癌抑制遺伝子はどちらも状況に応じて細胞増殖を精密に制御するのに重要です。癌原遺伝子が変異により「暴走」状態になり、癌抑制遺伝子が変異により機能を喪失すると、細胞の増殖を止められなくなります。それが癌という病気の本質であり、癌は遺伝子の病気なのです。
癌ウイルスの持つ癌遺伝子は変異によって既に暴走型になったものです。癌ウイルスは感染した細胞を急速に増殖させる事で、さらにウイルス自身の増殖を有利にします。ウイルスは利己的な寄生遺伝因子です。癌ウイルスは進化の過程で宿主ゲノムから「暴走型癌遺伝子」を「盗んで」いたのです。
免疫系と病原体は軍拡競争による共進化の関係にあります。ウイルスなどの病原体は進化し、そして免疫系も進化します。軍拡競争のために免疫系の進化は速く、特にB細胞免疫系はヒトも含めて、動物ごとの違いが大きいです。ちなみに、ヒトはレトロウイルスによる癌感染症をほぼ克服した稀有な動物です。
癌発生の機序と特徴
癌の発生は多段階プロセスを踏みます。癌の始まりは正常細胞のゲノムに生じた遺伝子変異です。変異はDNA複製時のエラーによって起こる事もあれば、発癌物質への暴露などの外的要因によって誘発される事もあります。遺伝子変異により増殖機構が破綻すれば、急速に増殖する細胞が生まれます。増殖はホルモンや慢性炎症など様々な要因によっても促進されます。
癌細胞はDNA修復や染色体安定維持に関わる遺伝子が損傷している事が多く、ゲノムが不安定です。そのため、時間の経過とともに更に遺伝子変異が蓄積し、癌抑制遺伝子を失う機会も増えていきます。その結果、細胞は正常な増殖制御が不可能となり、周辺の組織に浸潤したり、転移して広がるようになります。そして、新しい血管の形成を促進するようになり (血管新生)、自身への栄養と酸素の安定供給を確保しようとします。また、癌細胞によっては免疫システムを回避するメカニズムを発達させ、免疫細胞による破壊を回避します。
抗癌剤の機序と問題点
増殖の速さは癌細胞の特徴でもあるのですが、抗癌剤の多くは急速に増殖する細胞を殺傷するように設計されています。例えば、タキサン系薬剤 (パクリタキセルなど) やビンカアルカロイド系薬剤 (ビンクリスチンなど) は細胞分裂に必須の有糸分裂紡錘体の形成と機能を阻害します。 フルオロウラシルなどはDNA合成阻害剤であり、DNAの複製を阻害する事により細胞を殺傷します。問題は、抗癌剤は癌細胞のみを狙って殺すわけではなく、その攻撃対象には増殖速度の速い正常細胞も含まれてしまう事です。 また、抗癌剤によっては、リンパ球やその他の免疫細胞をも殺傷し、リンパ球の数を減少させます。それにより免疫抑制が起こり、治療中や治療後の感染症や癌悪性化のリスクも高くなります。
癌の診断と問題点
癌の診断に使われるX線やCTスキャンは電離放射線を使用しますが、電離放射線はDNA損傷の原因となります。 さらに、放射線療法はそれ自体が細胞のDNAを損傷します。化学療法薬として使われるDNA合成阻害剤はDNAの変異源であり、癌の発生や悪性化の原因となります。本来、理想的な癌の治療法は、1) 癌細胞のみを特異的に攻撃して正常細胞を攻撃しない、2) 新たに癌細胞を発生させたり癌を悪性化させない治療法です。
しかし実際には、現在行われている癌治療自体が遺伝子の変異の原因となり、また治療の副作用としての免疫抑制が新しい癌細胞の発生や既存の癌細胞の悪性化にも繋がる事もあります。更にはX線やCTスキャンによる放射線への曝露もゲノム変異源となりますので、癌という病気の本質を考えると、頻繁な癌診断も癌の遠因となるでしょう。
癌はどのように免疫系を回避するのか?
癌細胞が免疫システムによる検出や攻撃を回避するために発現するのが免疫チェックポイントタンパクです。免疫チェックポイントの働きは「私を殺さないで!」という信号を免疫細胞に伝える事です。例えるならば、癌細胞が正常細胞のように「擬装」する仕組みですが、その擬装を見破って無効化するのが癌免疫療法です。最もよく知られた免疫チェックポイントタンパクは、PD-1とCTLA-4です。癌免疫療法に使われる免疫チェックポイント阻害薬の作用機序は、これらの免疫チェックポイントタンパクを阻害する事です。免疫チェックポイント阻害薬を使うと免疫系の「ブレーキ」が解除され、癌細胞は再び免疫系にとっての攻撃対象と認識されます。
癌免疫療法の問題点
自己・非自己を識別するためのT細胞の選択は胸腺で行われますが、自己反応性のT細胞がそこで全て除かれるわけではありません。「私を殺さないで!」の信号を発する事で免疫系の攻撃を回避している正常細胞も存在します。免疫チェックポイント阻害薬の問題点として、免疫系が「あえて攻撃しない」ように保護している正常で健康な細胞までもが免疫系の攻撃対象となってしまう事があげられます。
また、免疫チェックポイント阻害剤は、その副作用として免疫寛容に影響を与えます。免疫寛容が破綻すると免疫系が誤って自分自身の細胞や組織を攻撃する自己免疫反応を引き起こし、様々な臓器や組織で全身性の炎症を引き起こします。癌免疫療法による治療法と言っても攻撃対象が癌細胞だけとは限らないのです。また、免疫チェックポイント阻害薬は免疫チェックポイントタンパクを発現しない癌には効果がありません。
癌を排除する自然免疫 (NK細胞)
健康な人の体内でも日々新たな癌の元となる細胞は発生しますが、そうした細胞は免疫系によってその都度排除されています。つまり、免疫を抑制する事は癌の発生や悪性化を促します。癌細胞を攻撃する免疫系には自然免疫と獲得免疫がありますが、自然免疫系の重要な役を担うのがナチュラルキラー (NK) 細胞です。NK細胞は癌細胞を含む異常細胞を認識して排除します。
正常細胞は自己抗原の発現によって、NK細胞の破壊の対象から免れます。対照的に、癌細胞や感染細胞はこれらの自己抗原のレベルが変化や減少している事が多く、NK細胞に認識されやすくなっています。NK細胞は1つのマーカーのみで癌を認識するものではないのですが、そもそも1つのマーカーで癌を特定する事は困難です。そして、NK細胞の優秀さは「なんとなく自己細胞っぽくない」細胞を認識して見分けられる点であり、この機能により体内の癌細胞の排除の重要な役割を担っています。この仕組みは分子標的治療薬とは対照的です。
癌を排除する獲得免疫
獲得免疫の特徴は自己・非自己の識別です。例えばウイルスなどの感染体を構成するタンパクは基本的に「非自己」であり、免疫系にとってはそれらを外敵と認識する事は難しくありません。一方、癌細胞は「自己細胞」が変化したものであり、癌細胞を構成するタンパクは自己タンパクですので、獲得免疫は通常は癌細胞を「身内」と判断して攻撃しません。癌の特徴の一つはゲノム不安定性です。
例えば、ミスマッチ修復遺伝子を欠損した癌細胞は大腸癌などでよく見られますが、そうした癌細胞ではゲノム全体に変異が蓄積し、細胞表面に発現するタンパクのアミノ酸配列が変化したりします。獲得免疫はそのような変異タンパクを非自己と認識して排除します。
癌細胞はマーカー (目印) で識別できるか?
癌細胞にどんな変異が起きるかはランダムな上、遺伝子も変わり続けるために、たとえ特定のタンパクを狙う治療法を作っても遺伝子の変異により回避されてしまいます。癌細胞を直接の標的とする場合、理想的な標的とすべきものは、多くの癌に共通して発現するが正常細胞には存在しないような腫瘍特異的抗原です。しかし、現在に至るまでそうしたものは見つかっていません。実際のところ、癌細胞だけに共通して存在するマーカーなど無いのです。腫瘍マーカーと呼ばれているものは、実際には癌細胞に高発現する腫瘍関連抗原ですが、そうした抗原は必ずしも癌細胞だけに存在するわけではありません。つまり、共通した単一のマーカーで癌を規定する事はそもそも不可能なのです。
繰り返しますが、癌細胞を特定の細胞表面マーカーだけで確定する事は事実上不可能です。また、たとえ癌細胞だけが持つようなマーカーが存在したとしても、癌細胞の特徴であるゲノム不安定性によりマーカーを喪失した癌細胞が派生します。そのため、マーカーを標的にした毒素を癌細胞に対して用いても、結局マーカーを失った癌細胞が生存競争に打ち勝ちます。現行の癌の治療法では、癌細胞を特異的に排除する事はできません。また治療のみならず、診断ですら癌の発生や悪性化の原因となり得るのです。