以前、TVの街頭インタビューで年配者が『若い人が歩き回って(ウイルスを)ばら播くからね』と言っていたのを思い出します。何処かの似非専門家が言ったことをそのまま信じているようです。もし本当ならこの人は外へ出てはいけないはずですが、平気で街中にいるわけですね。社会の中の誰かを捉えては、病気を持たらす悪者として危険視する考えはコロナパンデミックの中では常識なのでしょうか。
同じことは県外ナンバーの車、都市部からの帰省や移動、マスクをしない者に対する非難、そしてワクチン接種しないことにまで及びました。先の高齢者は感染するのがイヤなら、自分で免疫を高めることをすれば良いだけです。それを誰か他の人のせいにするという思考は、不自由を感じたフラストレーションを他の人にぶつけることと変わりありません。
国民に行動制限をかけてフラストレーション下におき、相互にルールを守らない者を攻撃させることは、イギリスの植民地統治の方法とよく似ています。日本では高齢者と若者でしたが、植民地ではその国民をお互いに分断して争いを起こさせ、統治者に攻撃が向けられないようにしていました。それで統治のコストが低く抑えられるといいます。
専門家会議で『若い世代がウイルスをまき散らし、高齢者が感染する』と良く言っていましたね。これは国内を世代で分断してお互いに対立させる意図があったのだと思います。実際はどうかというと、亡くなる高齢者の大半は平均寿命であったことが分かっています。煽られればいとも簡単に怖がってくれるという、仕掛ける側から見れば面白いほどに効果が出るという、この支配の構造に気がつかなくてはなりません。汚い、不潔、不衛生のマスク。
「医学的な根拠はない」のに、マスクを外せない…「キリシタンの踏絵」と化したコロナ対策の末路
<5月8日、感染症法における位置づけが「5類」になる新型コロナウイルス。私たちはこの日を境にマスクを外すのか。それとも「マスク信仰」を棄教することができないのか>【與那覇 潤(評論家)】
2023年3月、マスク着用については個人の判断に委ねる方針を決定(東京都内)Kim Kyung Hoon-REUTERS
5月8日、ようやく新型コロナウイルスの感染症法における位置づけが「5類」になる。これは毎年流行する季節性インフルエンザと同じ位置づけなので、ようやく名実ともに、非常事態としての「コロナ禍」が日本でも終わることになる。 【動画】マスク姿のアジア人女性がNYで暴行受ける 5類へ移行する方針が発表されて以来、世間の噂として持ちきりなのが「では、いつマスクを外すのか?」だ(なお政府によるマスクの勧奨は、すでに3月13日に終了済み)。
しかし思い返せば、問われるべきは逆に「そもそもなぜ私たちは、いまだにマスクをしているのか?」であろう。 スウェーデン在住で医師の宮川絢子氏によれば、コロナ禍以前は本来、マスクが感染予防に有効だとする「医学的な根拠はない」というのが通説だった。同国は欧州で唯一、ロックダウンを回避したことで注目を集めたが、飛沫感染の抑止に効果の高い「ソーシャル・ディスタンスの確保」に関しては、むしろ国民に呼びかけている。
スウェーデンが欧州では例外的に、マスクの義務化を見送ったのは、マスクの着用に安心して社会的な距離を取らなくなっては本末転倒と判断したためである。日本と同様に公共交通機関等でのマスク着用が「推奨」されるようになった後も、屋内でつける人は過半数程度で、まして屋外での着用者は少数だったという。 日本でロックダウンや強い行動制限を高唱した識者の多くも、新型コロナの流行が本格化する直前の2020年2月までは「マスクが有効だとする根拠はない」と主張していた事実を、医師でジャーナリストの森田洋之氏が明らかにしている。
また日本人はそもそも欧米人と異なり、恋人以外とはキスやハグなど近接しての「濃厚接触」をする習慣がないので、ソーシャル・ディスタンスはもともと確保していたようなものだ。 つまり科学的に見れば、どこの国でもマスクによる効果の度合いは怪しく、日本に限って言えばなお一層、マスクをつける意味は乏しかったというのが実態だ。にもかかわらず漫然と着用を続けた結果、昨秋の英国でのエリザベス女王国葬(2022年9月)とわが国での安倍元首相国葬(同月)の対照もあり、「いまだにマスク姿の日本人」はむしろ奇異の目にさらされている。
どうしてそんな、おかしな事態になってしまったのか。実は、誰もが知る日本史上のある慣習に、謎を解く手がかりが秘められている。 江戸時代にキリスト教が禁止され、主に九州で宗教統制のために「踏絵」が行われたことを、知らない日本人はいないだろう。キリスト像などを描いた絵を領民や、特に信仰が疑われた者に踏ませて、「キリスト教徒ではない」ことを示させたものだ。
もっとも、これが民衆の内面にまで公権力が分け入る「過酷な宗教弾圧」だったのかに関しては、近年疑義が呈されている。実は、200年間を超える幕府の弾圧に抗してカクレキリシタンが「キリスト教の信仰を守り通した」というのは、後世に作られたロマンに過ぎず、史実ではなかった。 『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(角川書店)など宮崎賢太郎氏の研究によれば、そもそも九州では戦国時代に受洗したキリシタン大名が領民にも改宗を「強制」した例が多く、その意味で彼らの信仰は出発点においては、必ずしも自発的なものではなかった。
大名が入信した理由にせよ、武運長久を祈る上でご利益の大きい「仏教の新たな守護神」のように誤認していた例が目立ち、キリスト教の内実をきちんと理解した庶民の信徒がいたとは、当時の識字率等を勘案すれば想定しがたい。 そこから拷問で棄教を迫られても転ばずに死を選ぶような、信仰心の篤いキリシタンの農家が育っていったのは事実だ。
しかし彼らの主観的な意識としては、一族に繁栄をもたらす守り神として決して秘密を明かさぬよう語り継がれた「先祖代々の教え」を守ったのであって、それを「唯一神であるイエス・キリスト」に殉じたものと読み替えるのは後世の創作である。 何よりの証拠は、1873年に明治政府がキリスト教を解禁しても、晴れてカトリック教会の信徒となった「復活キリシタン」はごく一部であることだ。
その他の多くは、戦国時代に作られたローカルな民俗信仰の慣習を人目に触れない形で秘かに守り続ける「カクレキリシタン」を、今日に至るまで続けている。
「経済が回らない」事態となった
さてここで、キリスト教を「近代科学」に置き換えてみよう。マスクをつける人こそが「科学的」であり、パンデミックの克服に協力するよき市民だとするイメージは、一時期あらゆるメディアを席巻した。しかしすでに見たとおり、その主張には医学的に十分な根拠がない。 むしろ私たちがマスクを着け続けてきたのは、近代科学とはまったく異なる別の理由によるものだ。
それは日常生活で接する周囲のローカルな集団に対して、「私はまじめですよ」「みなさんの調和を破りませんよ」との信仰を互いに告白しあう、一種の民俗宗教だろう。 まさしく誕生のきっかけこそ宣教師の来日であれ、日本に固有の文脈の下で正統派のキリスト教とは別個で独自の内容に育った「カクレキリスト教」に等しい存在が、いまや世界でわが国だけに残る「マスク信仰」だったわけである。
コロナ禍との対照で興味深いのは江戸時代の後期、1805年に天草地方で発覚した潜伏キリシタンの事例だ(天草崩れ)。なんと全人口の3分の1がキリシタンであることがわかってしまい、強硬路線で全員を弾圧すれば「経済が回らない」事態となった。 そのため領主側は彼らをキリシタンと見なさず、単なる「心得違い」にすぎないとし、拝んでいたご神体を供出させた上で、踏絵を踏ませたのみで無罪放免とした。
「マスクさえしていれば」旅行や外食にも目を瞑ろう、という今日の私たちの心性と、「踏絵さえ踏むなら」それ以上の詮索はやめようとする近世期の宗教統制の発想は、実はそう違わない。 江戸時代と比べて令和のコロナ禍に「進歩」した点があったとすれば、聞かれてもいないのに「私は踏絵を踏んでいます」とわざわざ自らアピールする人士が、SNSのプロフィール写真をマスク姿に変えるなどの形で、続々現われたことくらいだろうか。
近代以前と比べても公権力が統治しやすい「よき百姓」たること、この上ない人々である。 マスク着用だけでは飽き足らず、フェイスシールドまで重ね着した自撮り写真で、講義の遠隔配信に邁進する姿を誇った大学教員もいた。これはプロフィール欄に「科学よりも同調圧力に従います」と自分で書くようなもので、さすがに本人も忘れてほしがっている気がするが、卑しくも「歴史学者」ならそうした過去こそを、自ら史料として保存し後世に語り継ぐべきであろう。
かつてそこまでマスクの着用を煽り、違う意見を「キリシタン」のように異端視して弾圧した人々は、世界に無知を晒したいま、きっと恥ずかしい気持ちでいると思う。5類への移行後は、不要にマスクで口元を覆い続ける人を見たら「きっとコロナで騒ぎすぎて、周囲に顔向けできないんだろうね」と、生温かい目線を向けて棄教を促すことが、日本で速やかに脱マスクを実現してゆく道かもしれない。
與那覇 潤(評論家)
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